20170826

ゴッホ展を見に






見たことのない作品が結構あって。
彼は、モチーフによって、出てくるものが違うようにみえた。
風景、静物、人物、
さらに、描いている対象のそれぞれで、
おお、ここにこんな風に絵の具置くの。とか
ここを描き込むんだ。とか
ここはこの筆致で行くのね。とか
描くものや位置を決めて描きはじめる、そのチョイスや
描きはじめて描いているときの筆の動かし方、塗り方が
なんというか懸命なまでに型にはまらない
一見、浮世絵に影響を受けているとか、
輪郭を色で線で描いているとか、
筆跡の動きとか、
ゴッホらしさに見えるところは強くあるんだけど
でも、
もっと定まらぬ何かをニュートラルに見ていて
それがそのまま画面によっこらしょと
移動している、乗っかっている、動かされている
そんな感じ。
絵描きが時間をかけた分、絵描きがその絵を見て考えて描いていた密度や空間に、馴染むだけその絵の前にいるのは、なかなか難しいけど(そこそこ人もいるし)
でも、なるべくいいな、と思った絵の前にいることにした。
ひととおり見たあと、ベンチに座って、鑑賞しているひとも含めて鑑賞して、自分んち!みたいに空想しながら、ゴッホの絵の中にいてみたけど(なかなか良かった)
ほとんどのひとが解説を読むのに時間をかけていて
もしくはヘッドフォンの解説を聞いている間
絵のほうはちょこっとじーーーーっ。
ハイ次
みたいな配分で、
うーむ。
と。
(でも周りに気を使ってる
ということもあると思うんだけどね)
どうしても、絵画鑑賞ってなると、お勉強的な感じで
見ちゃうのかしらとお客さんたちの背中を見ながら思った。
あーー、もったいないなぁ。せっかく美術展に足を運んでいる方々なのだ。貴重である。もっと美術面白いって知ってほしい。
もっとわくわくして楽しく見られる方法ってないかな?
意外と、絵を「見る」ってできないことなのかもしれないとも思った。理解するんじゃなくて、そのまんま。「見る」の。見ることに浸る。自由にいろんなこと思っていいんだよなぁ。勝手に面白がっていい。きみのこの遊び方いいじゃない!ってな感じで。
(いやでも、見るのはそれぞれの自由な見方でいいのですけど笑 おせっかいでうるさくてすいませんね笑)
なんでこの部分に絵の具が不自然にどばっと乗っかってんのよ?とか
すごくぴりぴりに葉っぱの輪郭色変えて描いてるのになんで、花はどろどろに色付けてんの?なんか綺麗というより妖怪みたい、だけど、妙なバランスで綺麗な普通の絵に見えるのがまた面白いねとか
渓谷描いてるんだろうけど、ほとんど海底だよこれ。輪郭描きすぎて、細胞みたいになってるじゃん
しかもこのうねうねはなんなんだ?いきなり人がここにいるわい笑
このとってつけた唐突感!んで、奇妙な馴染み方。でも、
人のおかげでこの渓谷の奇妙さとスケールがわかるねぇ
とか。笑
現実の風景の勝手すぎる解釈、ものの見方、切り取り方、バランスの再構成というか、構成っていうよりも、もうすごく勝手笑 自由ぶりがええなぁ、
解放されるなぁ
とかとかとか。
紙にインクで描いている絵が良かったなー。
水彩もええなぁ
あたしも、ひさびさやろーなんて。
最初に書いたけど、対象で出てくるものが違うんだなぁというのが自分なりの発見だった。
そのあと、本郷新美術館に寄り
強行日帰りで。
写真は雨上がりのひととき。
すっきりしまくりの毒の抜け落ちた感じ。
もう秋の空なのさ。


☆彡

と、ごちょごちょ書いているけど、実際には作品の前に立って、あれこれ意味を見つけて言葉に変換して「見る」ことはしない。というか、そうはならない。スーパーニュートラルに作品の前に立って、制作者側の(描いている、作っている)時の視点をまずは探る。そこには意図的な試み、言葉の欠片、無意識の暗い穴、絵の具の色そのものや動きの形跡がある。そのものを浴びるようにして「見る」ことで蘇る制作者の神経反応や身体感覚をただ、受け取るのだ。

管理する
それらをなるたけ、そのまま自分の神経に受け止めておくようにする。あとになってから、いろんな何かに変換されたり、角度を変えたり、時にはストレートに、時には粒様にそれら過去の制作者の試みが、身体を通してぴゅっと飛び出してくる。循環する鑑賞、というか、共感、というか、うーん。時間と物質空間を超えて、発見の思考は永遠に飛びまくっている、んじゃないかね、と思うのだ。「発見の思考」というような本質的な創造性なようなものがあるとすればそれは、永遠に今生きている人のからだを借りて、通過して、飛び続ける。