20180128

空想画廊 Vol.3 あとがき

「細木るみ子はあのトランクの夢を見るのか」


 はじめて細木さんの作品の実験性を理解したのは、2016921日の「ほぼ同時写真 ニューヨーク市と藤沢市との同時写真プロジェクト(2006年来継続中)」を Facebook 上で目にしたときだった。それ以前には「ビリケン商会」さんの「ビリケンギャラリー」にて催された「続 私のセンチメンタル通り」でじっさいの作品を拝見しているが、そのときは細木さんがなにをしようとしているのか、わからなかった。

 が、それ以来、ひじょうに多彩であり多作な細木さんの作品を、パソコンのディスプレイ上からではあるが、拝見しつづけることによって、じわじわとことばで理解できるようになってきた。まったくの私見ではあるが、あとがきとして、鑑賞の手がかりになればさいわいに思う。

 細木さんは、まず素材ありき、なのだろう。それがあれば、つねに五感のどこかの神経細胞が「発火」するのだ。だから、感覚系の神経と運動系の神経がさっとはたらき、あれほどたくさんの作品がつくれるのだろう。これは日ごろからその準備をしているひとにしかできない「試合勘」のようなものだ。

 だから、細木さんにとっては、それはわたしのイメージするような、たんなる「素材」ではないのだろう。

 まず、以下の引用文を読んでいただきたい。

「主体が知覚するものはすべてその知覚世界(Merkwelt)になり、作用するものはその作用世界(Wirkwelt)になるからである。知覚世界と作用世界が連れだって環世界(Umwelt)というひとつの完結した全体を作りあげているのだ。」(「生物から見た世界」ユクスキュル/クリサート 著 日髙敏隆 羽田節子 訳 岩波文庫:七ページ)

 わかりやすいか、よけいわかりにくくするか、心もとないが、それをものにたとえてみよう。

 すでに生物ではないし、知覚も作用もないが、「主体が知覚世界と作用世界とでつくりあげるひとつの完結した全体」、それを「ゆで卵」だとしてみる。

 まず、黄身と白身とが「主体」である。黄身はなにを意味しており、白身はなにを意味するか、その分析もできなくはないが、ここはひとまずひとつの「主体としてのかたまり」としてご了承いただきたい。

 とすると、それが卵の殻のほうから知覚するもの・ことが「知覚世界」。そして、黄身・白身のほうから卵の殻のほうへと作用するもの・ことが「作用世界」である。

 そして、この二つの世界が連れだって、動物そのものと同様に多様な「環世界(Umwelt)」というひとつの完結した全体を作りあげているのである。そしてポイントは、そのゆで卵の「黄身・白身」と「殻」とのあいだにある、あの「薄皮」である。

 卵の黄身と白身との立場であれば、つまり「主体」の立場であれば、それは「『殻』がどういうものであるのか」をことばで弁別するところである。と同時に、こんどは逆に、それはじぶんが「殻」へむかってことばで問いかける場所にもなる。

 つまり、わたしたちの知覚と作用は「殻」のところまで達することなく、あの薄膜とやりとりをしているのであり、だからこそ「ことば」で——細木さんの道具的存在であれば、鉛筆で、筆で、絵具で、糸で——それを形式化することができる。そのむこうがわの卵の「殻」は、わたしたちにとって、形式的には「不可能なもの」なのである。

 ところが、細木さんはここで逆転の発想をしている。動画の逆回しを思いだしていただきたい。細木さんのことばでいうならば「表象・現象のリアリズムのむこうがわのリアル」を、ほんらいならばこの「不可能なもの」を——鉛筆、筆、絵具、糸をとおして——、「素材」へと、つまり、紙へ、写真へ、とひきよせ、炙(あぶ)りだそうと試みているのである。

 はじめに、細木さんにとっては、それはたんなる「素材」ではない、と述べたが、つまり、われわれ人間の「環世界」のむこうがわにあるかもしれないなにか、もしかしたら彼岸のなにか、真如、そういった「なにか」を「素材」へと逆照射しようとしているのである。

 ハイデガーのいう「眼前によこたわるもの」を、「本来的時間性」の「将来」へと先駆して、その可能性のほうから——つまりさきほど思いだしていただきたい、と述べた「動画の逆回し」のたとえでいうならば、細木さんは、未来のほうから現在へと流れ、そして過去へと去って行く時間のなかで、あたかもギリシャ時代の彫刻の素材である大理石のように「眼前によこたわるもの」すなわち「素材」、その正体をあばきだすように、彫刻するように創作している、ということである。

 われわれの目にはそうはみえないが、ひとつの作品を完成させるあいだに、作品とともにちょっとだけ未来へ行って、そこから一筆えがいては作品とともにわれわれのほうへ到来して、そしてまたその作品とともにちょっとだけ未来へ行ってもどってくる、そういう往還を何度もなんどもくりかえしているのだろう。

「先駆」ということばがなんとなく示すとおり、これは世間でいうところの「賭け」にもちかい行為であり、臆病なわたしからみれば、いつも着物の片肌を脱いで賭場でサイコロを振っているようなものである。あ。じっさいにみたことはありません。

 はたして細木さんは、つまり「ジェイソンとアルゴ号の乗組員」は「黄金の羊の毛の皮」を発見することができるのか。げんざい「存在」「志向性」「ゲシュタルト」「時間」というタームを手がかりに小説を書いているわたしにも予想はつかない。ぐうたらで臆病なわたしとちがって、身を削ってでも作品をつぎつぎと仕上げていく細木さんのほうがはるかにゴールに近いようにみえる。うかうかしているうちに先にやられてしまうかなあ、などとぼんやりかんがえている場合ではなくなってきている。

 それにしても今回のコラボレーション、締め切りは短く、ムチャぶりも多かった。いちどに三つの依頼、というのもあった。「女性が主役で、女性のモノローグで」などという依頼もあって、これなどはいちどはキャバクラへ取材に行かなければならないか、と本気で覚悟を決め、ATMで金を引き出し、そのとちゅうのぎりぎりのところでアイデアが湧いて店には行かずにすんだ。

 まるで千本ノックだったが、不思議なことに、いま進行中の小説に書こうとしていることと同期するところがあり、それをたよりになんとかアイデアは生じ、ひとつひとつ挑戦することで「あれっ。書けた」「あっ。こんなことも書けた」と、自分が書こうとしていることもすこし整理ができたように思う。セッションの醍醐味、というのはこういう味わいなのだろうか。

 いつかは北海道の細木さんの個展を拝見しに行きたいものだが、細木さんの地元では、きっと「キャバクラ通いの半田哲也」というおかしな噂がひろまっているだろうから、なんだか敷居が高い。作品を拝見しにうかがうときは、サングラスをかけ、マスクをして、帽子をかぶり、あやしくない恰好に変装して行かねばならないだろう。





/ 半田 哲也
/ 細木 るみ子 制作途中の鉛筆素描 2014