20180301

これまでにない新しいもの

私は「これまでにない新しいもの」を表現したい。そのためには自分の「ものの見方」さえも疑問視することから始めます。表現によって私が得たいものは「新しい実感」とも呼ぶべきものです。
その「新しい実感」とは「今までとは違う世界が開けたという実感」です。「新しい世界を見つけた!」という手応えです。「新しい実感」は非常に不安定です。それは、まだ誰も見たことのないものだからです。これまでの世界とは違う世界が最初から見えているわけでもありません。見えかけた「新しい世界」が本当に「新しい世界」なのかを「いままでの世界」と見比べながら進んでいくのです。
私が見たい「新しい世界」はこれまでの日本的表現の中にはありませんでした。また西洋的表現の中にもありませんでした。つまりこれまでの「技術や技法」を追求することでは、私は「新しい世界」に到達もできないし、私は「新しい実感」も手に出来ないのです。
私が生きていることで私は新しい世界や実感を探ることが出来ます。ですからこの「生きている身体」の感覚を研ぎすまして、常に「これまでの世界」を破って行きたいと考えるのです。
そのためには一方的な「私だけの感覚」さえも疑問視しなければなりません。常に「新しい世界を見つけた私」を「それ本当?」と判断していく私も必要なのです。なぜなら「新しい世界を見つけました!」と作品が叫んだ時に「その世界は既にある」「あなたが前に描いたものじゃないか」などと否定されたら「新しい実感」の定着が成功ではなくなるからです。画面にエンピツを走らせる「ほら、どうこれは?」「うーん違うな」「どこが?」「ほらこの部分が今ある世界だよ」「なるほど、じゃあこれではどう?」
この主観と客観の往復がエンピツの走りとなって私の作品になっていくのです。
「何を描いているの?」とよく聞かれます。
「新しい空間。私に見えたこれまでに見えなかった世界」が私の答ではありません。新たに見えた世界の姿を直接描くのではなく、私は「新しい世界を探る姿」と「新しい実感に向けての手応え」を定着させようと思っているからです。
「抽象画を描いていらっしゃるんですね?」ともよく聞かれます。
「はい、抽象画を描いています」が私の答えではありません。新たに見えた世界の姿形を描こうとするなら、それをこれまでの技法や技術で描いていこうとするなら、それは具象に結びついていくかもしれません。「探る姿」や「実感の手応え」を定着させようとしているのですから、それは「とある自画像」といってもいいのかもしれません。しかしそれですら「抽象画」と言われれば「抽象画かもしれない」という答なのかもしれませんが。
繰り返しますが「抽象画」もまた私にとっては「これまでにある世界」のひとつなのです。